一月は北海道、今月は沖縄。那覇を起点に初めての与論島と与那国島を巡る。雪の北の大地に対して、南国の海と空はどんな顔を見せてくれるのか楽しみだな。
今回もLCC、成田から那覇まで二時間半余。一時間の遅れは免責の範囲としても、狭い座席はこれ以上は無理と知る。那覇空港のLCCターミナルは倉庫を改造した安普請、メインターミナルまではバスの移動となる。
明朝の与論島行き出航時間を考えて、今夜の宿は港にも近い「マリンウエスト」。与論と与那国へのアクセスの関係上、中継点の那覇には一日置き、三泊する勘定だ。
ホテル着は夜七時過ぎ。早速、風呂に浸かり、ホテル近くの「わらじ屋」で初日の慰労会をスタートさせる。隣席のオヤジの勧めもあり「山羊刺身」(ハーフ)にチャレンジ。以前、辺野古の民宿でご馳走になった山羊汁で痛い目に遭ったが、これは臭みも抑えられまあまあ。目の前の立派なハブとご対面しながら流す泡盛、これまた滋味深い。
几帳面、いや小心の証なのだろう。目覚めは夜中三時前だった。いつものようにラジオ深夜便を聴きながら自分だけの世界をあーでもない、こーでもないと掘り下げる。
那覇と鹿児島を結ぶ航路は二社が交互に運航。この日はマリックスライン、朝七時発だ。六時過ぎにホテルを出る。十分足らずでフェリー埠頭に到着。乗船申込書(名簿)に記入して那覇〜与論島のチケットを購入。2,820円、五時間弱の船旅が始まる。
那覇港から本部港まで2時間、その先の与論島までが約3時間。本部を過ぎると外海、大型フェリー「クィーンコーラルプラス」もゆっくりした揺れが始まった。
シーズンオフのせいなのだろうか、二等船室は思ったより快適だった。与論島ターミナルは建屋もなく接岸するだけのもの。乗降客もそれぞれ二、三十人程。フェリーの貨物室に出入りするコンテナを運ぶフォークリフトが忙しく働いていたのが印象的だ。新聞に郵便、食料などの生活物資に至るまでの島の命綱だと強く感じる光景だった。
民宿としか思えぬ「与州旅館」は風呂、トイレは共同、朝食付きで4,200円。港や空港への送迎もやってくれる。荷を置き一息入れて早速、行動開始。まずは情報の宝庫、役場に向かう。教育委員会社会教育担当を二階に訪ねた。実は与論島で知りたいことがあったのだ。世界遺産指定以前、三池炭鉱の荒尾、大牟田を歩いたことがある。そこで「与論島民は馬以下の扱い」を読んだ。その背景を与論島で直に聞きたいと思っていた。
役場で応対してくれたのはさいたま市などで教鞭を執られた佐藤さん。定年後、千葉から嫁さんの郷里である与論島に永住。始めは「島時間」がカルチャーショックだったとか。腰を据えて三十分余、与論島からの移民史を教えてもらった。併せて島内三ヶ所、史跡史料を巡ることを勧められた。
島内はアップダウンがあると聞いていたのでバイクを借り動くとした。初めに役場近くにある「移住 開拓の月」と「十九の春」二つの碑を読んだ。与論と荒尾、大牟田などの繋がり、そして与論小唄=十九の春が分かった。次に向かった先は「サザンクロスセンター」なる郷土PR施設。ここには島の歴史や文化、もちろん「荒尾・大牟田与論会」広報も保管され、台風と水不足による食糧難から炭鉱(長崎、熊本)へと口を求めた史料が納められていた。
過酷な労働待遇から逃れて島に戻った人達が入植した地に向かおうと思った途端ポツポツ、しかも大粒になってきた。背中を丸めバイクのアクセルを吹かし、宿まで引き返す。お陰で上着はびしょ濡れ、雨は小康状態になったがすっかり戦意消失。夕方まで部屋でゴロゴロ、町中を歩くに止まった。そして今宵も地域振興タイムを迎えた。
地元民や観光客にも絶大な人気店「ひょうきん」。カウンターに小上がり、二階にもと中々の大箱。口コミどおり、地元の客と店員との会話はチンプンカンプン、全然判別不可だ。取り敢えずの中ナマから地元「有泉」に切り替え、刺身をいただく。ここならではの作法、白身魚には甘口醤油と鷹の爪で仕上げた酢が合うとか。なるほど旨し。流石に泡盛ロックは効いたな。ウィ。
いかん、二日酔いだ。反省。旅行が出来るのも健康があってのこと、今夜は禁酒と心に決めたー。今日の天気は突然の雨に泣かされそうもないぞ。で、一日遅れの新聞で知ったネパールからの留学生。そう言えば那覇のコンビニで接客していた女性店員を思い出した。「国はどちら?」と投げかけると日本語ですかさず「ネパールです」と返ってきたっけ。
さて、宿のチェックアウトは十時。荷物は宿に預けて、脂肪燃焼の一大行動に出るとしよう。
役場そばの観光協会に立ち寄り、景色のいい浜辺を紹介してもらう。ウドノスビーチは細い小道を進んだ先に在った。もちろん浜辺も景色も独り占め、ぼんやりするのには持ってこいだ。ビーチから少し進んだ先、視界が開けた高台に出た。茶花漁港には白い漁用コンテナが並び、頭から脚まで裕に1メートルはあろう烏賊をさばく光景に出くわした。遠目には豆腐と思う立派な肉厚、一切れ相伴に預かったが柔らかネットリ。刺身用に鹿児島に発送されるとか。
漁協のそばの喫茶店でコーヒーをすすった後、スーパーで買ったおにぎりなどを宿に持ち込んで昼メシ。午後一時、与論空港まで送ってもらいプロペラ機で那覇空港に飛ぶ。船だと五時間余、飛行機ならひとっ飛び四十分だ。
ゆいレール美栄橋から五分、国際通りにも近いホテル「サンキョウ」。ここも初めての宿、素泊り3,000円。トイレに風呂も付いてこの値段。部屋も設備も綺麗、整って実にいい、自分は大いに気に入った。次の旅行から那覇に来た時には定宿にするつもりだ。さて、脂肪燃焼のため旅行者が多い市場通りに繰り出す。土産屋が並ぶ中で足を止めたのがこの専門店。与那国島の帰りに再び那覇に戻るのに、勢いで「島とうがらし醤油」をお買い上げ。この風味は酒のアテの相棒にうってつけだ。
醤油屋の次は桜坂通り、コーヒー屋で一息する。折しも今日明日の二日間、桜坂劇場など一帯で「小さな街フェスタ」が開催中。あちこちでライブやフリマが行われていた。
公設市場から通りを一本、二本と外せばディープな沖縄が魅せてくれる。目に毒な「せんべろ」や「角打ち、立飲み」の看板、破格な総菜屋など堪らない聖地が広がっている。でも今夜の決意は固い。520円でスパムを挟んだおにぎらず二個とおでんを購入、部屋ディナーとする。
スッキリ爽やか禁酒の効果、目覚めもいい。しかし、これにより地域経済が元気を失くしたのではと気にかかる。適量で適切な地方支援は年金者の務めではと思うのだが、どうだろうか?そんな思いを引きづりつつ夜が明けない美栄橋からゆいレールで那覇空港へ。そして定刻七時二十分、プロペラ機が与那国島に向けてフライト。一時間強で日本最西端の地に降り立った。
コンパクトな空港だが、地方にとっては大きく重い使命を持っている。効率だけを求めて生活できる都会人には「お荷物」としか映らないだろう。九時到着とお願いしていた民宿「もすら」が空港に出迎えてくれた。何とものどかな風景、宿の造りもー。トイレとシャワーは共同、テレビは無しで朝はトーストとコーヒーが自由で3,500円。バイクは2,100円で借りた。ま、こんなもんかいな、と。
台湾まで111㎞の日本最西端の与那国町は人口約1,500人、面積29㎢余。先の鹿児島県与論島が5,350人、21㎢と比べ人口が3分の1以下とのんびりした感じだ。集落は役場が有る祖納(そない)、民宿がある久部良(くぶら)、比川(ひかわ)の順の大きさ。ちなみに「Dr.コトー」は比川地区がロケ地となっている。落ち着いたところでバイクに跨っていざ行動開始だ。民宿から五分、この島に来る目的がここ。
そして向かったのが「Dr. コトー」の舞台。この土地に診療所として造られたものと思っていたがロケのためのものと知りびっくり。案内人によれば、2003年の放送開始から長期シリーズ化を予定していたがその後のリーマンショク、大震災などにより継続を断念したとか。「北の国から」にも似たテイストの同番組だったなぁ。
道路には落し物があっちこっちに見つかる。誰も憤慨する人はここには居ない。大事な島の産業、馬の糞だからだ。自衛隊駐屯地入口を大胆にデモンストレーションする勇姿には頭が下がる。
同じようなルートで貸切バスが走っていた。昼メシの場所を考えているんだとそのドライバーに話すと「比川に島一番のそば屋」があることを知らされた。今来た道を戻ることになるが、これも何かの縁とハンドルを握った。「わかな」は肉屋とそば屋の二毛作の佇まいでシブイ倉庫風だ。メニューは大、並、小の三本で勝負。豚骨出汁だが臭みはなく、あっさり。中太麺でいい味、イケる。ズルズル、ツルツルどんどん喉を通っていく。確かに美味い。
がび〜ん。五時半、今夜の一大事が発生。与那国へ来ると大事な目的が酒場放浪記に出た「海響」(いすん)での一杯。早すぎてと思い開店三十分前に電話を入れたら、がび〜ん!
さんざっぱらモゴモゴ口の中で悪たれをついた挙句、民宿で柿の種を発泡酒で流す。前宿泊者の置き土産の泡盛もぐびぐび。同宿の中にも食事難民者が現れた。岐阜から来たというその兄弟は隣の集落までバイクを走らせ食材を買い出し、私の分まで沖縄そばを丁寧かつ繊細にこさえてくれた。これが美味かったし、助かった。感謝だ。フラれた「海響」がこれだ。
未明には音を立てて激しい雨。民宿を出る頃にも小粒なものが落ち続けた。与那国記念と民宿の佐々木さんとツーショット。日本経済新聞社刊「日本の縮図に住んでみる」の与那国島編は大いに参考になった。
もう一つ気付いたこと。郵便局は平等の全国サービスで在り続けて欲しい、と改めて強く思った。「郵政民営化」を選挙争点にして大勝した小泉政権は、現状維持を叫ぶ自民党国会議員をも抑え込み民営分社化を強行してしまった。与那国島を始め地方には銀行が全くない地域が多い。与那国島には本局と簡易の二つの郵便局が在り、地域経済と住民の利便に絶大な存在感を示している。もちろん旅行者にとっても不可欠な存在だ。
「効率化」の名の下に断行された「行政改革」はまさに地方切り捨てだったことが与論島、与那国島を巡って再確認された。建設省や気象庁などの行政機関は統合され小さな離島から撤退。島全体の台風防災体制は役場と消防団だけが担わされる。
小中学校は島に在るが高校は石垣島や沖縄本島へ行かなければならず、現金収入を求め親も島を離れる。戻ってくる子供らは居ない。島は高齢化と一人暮らし、介護を必要とするが看護・介護師が辞めたら次が見つからない状態が続くという。生活保護も離島部は数字を上げている。
ここ何年、中国とそれに「対応するため」の安全保障の「整備」が安倍政権の下で推し進められている。与那国島は地勢的にその最先頭地。自衛隊施設の拡張整備のおこぼれで町の経済や光回線などの「恩恵」も有るが、裏返せばいち早く「対象」にされる不安さが渦巻いている。
いよいよ最西端の島、与那国島を離れる。成田〜那覇は往復運賃はLCCで9,000円だが、那覇〜与那国の飛行機代は往復36,000円。働く人の賃金+燃料+維持費+広告保険+儲けを考えれば、遥かに片道500㎞の与那国島航路が安くなる筈なんだけど、このシステムは理解に苦しむなー。
船村徹が亡くなったことを旅先で知った。「別れの一本杉」や「東京だよおっ母さん」など数え切れない歌を世に送り出した好きな作曲家だ。自分の幼年期の血肉を創った世相がまた消えて行くんだなー。
そして旅行の最終は那覇。今回も初めての宿を予約してある。ゆいレール「県庁前」で降りて県警本部の反対側をニョロニョロ入った住宅地の中にある「コバルト荘」。ビル全体が民宿になっている。古いが中は手入れが行き届いてる。遅い昼メシは懐かしさの残る食堂でワンコイン。よっしゃ今夜はリベンジ、松尾ディープゾーンで酔っ払うぞ!
せんべろ徘徊はA、B、Cの順。先ずAの「さくら屋」から。お通しは酢の物とコロッケ、ビールに泡盛二杯。二軒目はBの「タコス・タコス」、お通しはタコスとサラダをワインで流した。すでにイイ調子なので二、三杯はキャンセル。仕上げのCは「でんすけ商店」でニシンの切り込み&出羽桜。ここはコイン方式で四枚+三枚。残った一枚でガチャガチャ、タオルを貰った。各店の散財額はお約束の千円ポッキリ。ウィ、満足な那覇の夜だった。
いよいよ今日、成田に帰る。夜明けが遅い沖縄では七時にようやく空が白んでくる。隣接する那覇高校ではバスケット部の朝練がすでに始まっていた。素泊りのため歩いて十分、ネットで調べた「みかど」を訪ねた。人気ナンバーワン「ちゃんぽん」(野菜炒めをご飯に載せたもの)をいただく。庶民の味に満足。
帰りもピーチ航空。那覇から二時間半で九十九里浜上空だ。毎度のこと、旅行は行く前にアレコレ考え準備している時が楽しい。いざ旅行が始まるとあれよあれよと時間が過ぎて行く。身体の疲れも日数分溜まっている。挙げ句の果てには「やっぱり家が一番」と年寄りじみた言葉が口から出てしまうのだ。成田でサンダルをスニーカーに履き替え京成、東武と自宅に帰っていこう。
週末は旧サッカー同好会の毎年恒例、呑み会。来月は海外に出る予定を組んでいる。欲張りなのかな?人生は二毛作で楽しまなくっちゃ、ね。(終)