ネクラな趣味と道楽の世界。これまで作成したサイトを新たな方式に合わせるため現在、調製中です。


ったくもう、三日坊主なんだから・・・。何をやっても長続きしない、飽きっぽい性格。時々はそうした自分に腹も立ち、性格の変革にも起ちあがったこともあった。が、案の定、根性無しの性格は直らなかった。これって「個性」なの・・・。

 

幼稚園おぼろげの記憶だが、隣町のキリスト系の幼稚園に入った。多分、半年か三ヶ月位しか通わなかった。我が侭の適わない初めての規律ある団体生活。無理矢理の午睡、お祈り、読み書き・・・。その幼稚園もいまは無い。アーメン。

 

●模型作り

餅菓子の木箱や壊れたりんご箱で始めた。後にバルサ材を使った。飛行機では、竹ひごを曲げるとき、ろうそくの火で焼いてしまった。不器用なのかな?

●分解修理
コツコツと確実に時を刻んでいる時計を、分解掃除を手がけたら結局、動かなくしてしまった。この時計、親父の勤続何十周年記念の大事な代物。そう言えば、組み立て後、バネやちっこいネジが余っていたなぁ。電気製品にも及んだ。スパイダーコイルを使った年代物、選局マジックアイの付いた五球スーパー、変圧器を使わないフ25Vィラメントのモダンスタイルのラジオも、ついには真空管式のテレビのフタを開けった。結果は散々であった。「こうなっているのか」の収穫はあったぞ!

●体操
鉄棒で流行った遊びが飛行機飛び。体操選手もどきの大技であった。小心故にあまり上達はしなかったが、悔しくてこの時ばかりは、根性が僅かばかり芽生えた。王・金田・広岡、長島・巨人・目玉焼き。野球も結構やった。でも誘った友達が目当てにしていたのは、この俺ではなく、俺が持っていたバットだった、らしい。

●洋楽
お年玉でゲルマニュームラジオを買った。朝に晩に良く聞いたっけ。昼間は関東の放送だけしか聞こえなかったが、冬の夜は海を超えた放送も聴こえてきた。ナンシーシナトラ、ウイルマゴイックの名前は忘れてない。シャンソン、カンツォーネが元気なときだ。中二(1965年)の頃、「ビートルズ」の大きな存在を知った。雑誌ミュージックライフの星加ルミコは、フジTVのビートポップスで興奮していた。「これがジョンの使っていたピック、ポールのサインです」と。星加は日本で一番ビートルズに近い人物であった。

●おしゃれ
VAN、そりゃ何だ。街場の子供はハイカラだった。ブランドの服を知っていた。福助や月星なら当に知ったいたが、カルチャーショックであった。遅れてたまるかとモダンボーイに努めたが、その甲斐無かった。

●アマチュア無線
中学生新聞を一年生から購読。ラジオいじりは好きだったので、惹かれた連載記事があった。「国内はもとより、見知らぬ世界の人と話せるアマチュア無線」。熱は一気に上がった。JARL(無線連盟)にSWL(短波受信者)の会員登録もした。最終的には、一番長続きしている「横好き」となる。

●ジャズ
新宿ピットインには20歳頃、10回以上通った。ナベサダ(as)、日野皓(tp)などが当時の人気バンド。浅川マキのライブも印象的だった。チックコリア(p)の初来日を合歓ジャズインで聞いた。渋谷の百軒店、新宿の歌舞伎町、お茶の水、浅草、門前仲町、そして京都のジャズ喫茶まで足を伸ばした。この頃が自分の「最盛期」なのかな・・・。

●オーディオ
15歳の春、松下電器のステレオを親に買ってもらった。左右に大きなスピーカーの箱、中央にチューナーとアンプが一緒になったセパレート型。嬉しかったな。この一年前、友達の家で一体型のステレオの威力を知った。西郷輝彦の「星のフラメンコ」が、ズンズンはらわたに堪えた。
オーディオに特にうるさいジャンルはクラシックとジャズであった。前者はタンノイ、後者はJBL。国内ではダイアトーンモニターが評価を得ていた。成人してから念願のJBLを手に入れた。38のウハーに蜂の巣ホーン、バスレフ式。アンプは山水、デンオンのダイレクトプレーヤー、トーンアームは忘れたが、カートリッジはエンパイヤとシュアーを所有。ちなみに今、SPは廊下の隅で邪魔扱い、アンプなどは物置でほこりを被っている。

●自転車
輪行(りんこう・折畳式自転車)に凝った。20歳過ぎである。ランドナー式の自転車を蒲生にあった店であつらえた。当時5万円は下らなかった。これで北海道の釧路~稚内、山陰の萩~亀岡を、海外ではフリッピンも走った。10年後、職場の先輩に譲ってしまった。

●小型映画
いわゆる8ミリ。ニコンR-10、10倍ズーム、10万円。20歳代終りのことである。アニメにもチャレンジ、編集も自分でした。漫画のカットや、絵コンテの大事さを学ぶ。また、フレッドアスティアの華麗で都会的な芸風に酔った。一方、これを担いで京都などにも撮影旅行(?!)にも・・・。ちなみに同行者はいまの嫁。お粗末!