結願のご利益が年末に待っていました。成田からはフルフラットシートで楽チンのフライト。深夜に到着したハノイは南国でも初冬の身なり。寝不足の翌日は体力温存に努め市内を散策、地元食堂でパワー充電しました。
ハノイ二日目、曇天。午前からサクサク歩き出したけど、観光要所はあいにく月曜日で休館。外観を冷やかすのが精一杯でした。仕方なく地元屋台でホォーをすすり、シクロで散財して正しく観光客に徹するのでした。
三日目は、ハロン湾。生意気にも日本人相手のツアーに背を向け、英語ガイドの混載ツアーを申し込みました。お陰で20US$と格安でしたが、休憩所や現地で他のツアーに紛れそうになる心配が付いて回りました。片道四時間の代償のハロン湾、正直「ん」って言う感じ。反面、幻想的な鍾乳洞が好印象でした。
ハノイからホーチミンは国内線、ビィェトジェトで二時間のフライト。お昼着なので精神的に余裕のヨッちゃんです。タクシーで着いた先は市内ど真ん中、ドンコイ通りに近いホテル。バスタブ付き、紅白歌合戦の視聴可能も外せません。この夜は日本人観光客が集う街角に立ち呑み屋を発見。早速「酒場放浪記ホーチミン版」を展開しました。
ホーチミンでは絶対「戦争証跡博物館」。1960年(昭35)のベトナム戦争は、第二次大戦後の世界を分かつ「米ソ代理戦争」。ホーチミン率いる「北」が15年後の4月、サイゴン(現ホーチミン)を治め永きに渡ったインドシナ半島での殺りくに幕を引いた。
日本が表向きに米ソどちらにも「加担」しなかったのは他ならぬ「憲法9条」の存在がある。館内には激戦を世界に伝えた沢田教一、石川文洋などの報道カメラマンの足跡が収められていた。下向きで普通のおっちゃんおばちゃん農民がとてつもなく強大なアメリカに抗い続け、遂には追っ払ったなんてスゲッ〜!
街歩きの途中、変なオヤジが片言の日本語で近寄ってきました。ここはカモネギになってやりましょう。安く値切ることを自慢にする旅行者は少なくない。しかし、現地ではそんな手段を使ってでも生きている人が居ることも確か。
戦後の闇市や混乱の社会を想像すると、海外旅行が出来る身分の人から過分に頂戴しても悪くない、と考えるからです。200,00don(約1,000円)で
60歳のバイクに同乗した64歳の自分。加齢臭の変なオヤジのタンデム、我ながら笑っちゃいますな。「アメリカ、韓国、フィリピン人がサイゴンに居たんだよ」。このおっさんも時代の生き証人でした。
日本に居たら絶対、観ない紅白。でもね、海外に来たら観たくなるんです、ハイ。日本の良いところ悪いところも吟味して、やはり大晦日は昔の血流になるんですね。そして一年のご褒美、〆の晩酌はビールと秋刀魚塩焼き、ホーチミンバージョン。やはりこの味、これですね。
その紅白、嫌いだった大御所たちも今は地に潜り、自分たちが社会と指針を導く役割。果たして今、その器量が備わっているのか?深く広く考えなくっちゃ、ウィ。2015年は頼りお世話になりっぱなしでしたが、2016年こそはしっかりと昨年の流れを引き継ぎ、甘やかして貰います。よろしくお願いします。合掌。
元旦の朝、ホテルからの眺めです。正月に相応しい穏やか、温暖な陽気です。昨夜は隣室の中国人と思われるドアのバタンバタンが煩く、枕を高く出来ませんでした。そんな訳で午前中は、自宅に設置してあるチューナーにネットで結び、リアルタイムで日本のテレビ番組を観て過ごしましょう。折しもNHK-BSでは映像記録「ベトナムの衝撃」を流しています。改めてあの時代を見詰めます。
今ごろ郵便配達のバイクが各家のポストに年賀状を届けているんだろうな。仕事とは言え寒中の朝方、局員には頭が下がります。お陰様、年に一度の音信で友人の近況が判ります。そうだ、餅が喰いてぇなぁ。
今日の昼メシは地元民御用達、街角の食堂です。評判がいいのか弁当の持ち帰りも多い。店内のテーブル下にはナプキンとして使われたトイレット紙、食べ物の一部が無造作に捨てられローカル感たっぷりです。おかずは一品、筍と豚の甘しょっぱ煮で22,000don、100円ちょっと。結構イケました。
ベトナム最後の夜です。正月に免じてここは最大かつ最強の奮発、マッサージ。ホテルで紹介された近所の店は、地元駐在員も足を運ぶ明朗会計。都内に二店の実績、ホーチミンは産声をあげ一ヶ月余という。フット&ボディ二時間コースに決定です。
身体と心と財布が軽くなったところで、ディナーへ。マッサージ店で初対面の駐在員から教わった「レタントン酒場」は元旦休み、もう一軒の「若大将」に落ち着く。久しぶりのソース焼きそばで胃袋まで落ち着きました。
<ホーチミンから羽田空港へ2016年1月3日早朝着>